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「モノクローム・ビューティ」ビーバー探索記
「きれいな音楽が聴こえる風景」
日本で主に仕事をしていた10年ほど前、東京青山のA画廊は新進アーティストたちにとってアートの世界に進出する登竜門として知られていた。
一度そのギャラリーオーナーにお会いする機会があり、彼に「どのような絵がいい絵なのでしょう?」と小学生のような問いかけをしたことがある。当時まだ30代前半のY氏は、こう答えてくれた。
「いい絵を観ていると、きれいな音楽が聴こえてくるんです」
時を経て、場所も異なり、自分で写真を撮ろうとして風景を観ていると、この彼の言葉が心をよぎってくる。
音楽の持つバイブレーションのイメージは強烈で、そのイメージをよみがえらせるのはたやすいのかもしれない。しかし、それにしても、私がいま目の前にしている自然は、いい音楽を奏でてくれるだろうか?どのような写真の撮り方をしたら、「いい絵」といわれるような、美しい音楽が聴こえるショットになるのだろう。Y氏は私の写真から、音楽を聴き取ってくれるだろうか?これはじつは自然をモティーフに写真を撮りはじめて以来の私のクリエイターとしてのテーマであり、つねに難解不可思議な謎でもあった。きれいな音楽が聴こえる写真を撮るために、風景を探しているといっても過言ではないと思う。
野生ビーバーのシークレットウオッチングポイントへ
その時、私は「グラッシーハイツ」のオーナーのナビで、野生のビーバーが見られるというウオーチングポイントに誘われていた。オーナー氏の運転する車はハイウエイを走って、一般道に入り、町と町の間と思われる地点にきていた。もともと土地勘もなく方向に自信のない私には、そこが一体どの辺りなのかをまったく把握できず、車を降りてからあたりを見回して不意に不安な気持ちになった。その不安感は別に防犯上のものではなく、明るく輝いていた太陽が落日に向かって一直線で山に身を沈めるときの、夜の闇に向かう前に漂ってくる独特の空気の序曲のせいだ。きょうは野生のビーバーの姿をキャッチ出来るかもしれないと、自分の意気込みを見せる証明するべくあえて、デジタルカメラを持たずにフィルムだけにした。それもカメラにはすでにモノクロのフィルムを装填してある。きれいな音楽が聴こえてくるような「絵」をとらえるには、絶好のチャンスといった勘がどこかに働いていた。
現在定住しているバンクーバーに、スタンレーパークという原生林公園がある。5年ほど前に、一匹のビーバーがスタンレーパークの外周トレイルに登場し、川べりにある大きな桜の樹を一晩でかじって、倒してしまい、ちょっとした騒ぎになった。次のターゲットを恐れて、他の桜の樹のまわりは金網で囲われた。ニュースをききつけて、野生のビーバーをカメラに収めようと、たくさんの人が押しかけた。しかしその後のビーバーの目撃者はなく、ビーバーは水伝いに煙のようにどこかに消えてしまった。
わたしの野生ビーバー体験はそれひとつしかない。いやこれは正確には体験とはいえない。自分で直接ビーバーに遭遇した訳ではなく、一晩で削ってしまったという、生々しくむき出しになった巨大な鉛筆の先のような桜の白い木肌をただ驚愕を持って眺めたことがあるだけなのだから。
土手にはスタンレーパークで見たような独特の鉛筆型の古い削り跡が、あちこちに並んでいた。ここには確かにビーバーが生息しているらしい。
野生ビーバーは警戒心の塊
ビーバーが出没するのに最適な時間帯がやってきていた。
足音や話し声は極端に押さえなければならない。野生のビーバーは警戒心が強く、ウオッチングポイントとはいえ、何回通っても見る事のできないこともあるのだという。
そのような前注意を頭に叩き込んで、車を降り、けっこう急な土手を音をたてないようにと気をつけながらそっと下った。目の前には巾20メートル以上の大きな沼が水をたたえていた。
沼というより、流れのない川という印象だ。ビーバーは自分のテリトリーに決めた川を、かじり倒した木や土を使ってダムを作ってせき止め、その真ん中に自分達の巣を作っている。削り倒した木の皮を食料としているので、ビーバーにとって、樹々は、食べ物でもあり、家の材料ともなる貴重品といえる。
極端にきれいな水を好み、環境が汚れてくると、とっととさらにきれいな水を求めて移動してしまう。自分達の生活の為に、周囲の自然の環境を作り替える人間以外の唯一の動物といわれているが、よい環境を求めるという点では、人間よりもはるかに徹底しているらしい。人間の手の届かぬ場所を求めて、ビーバーが巣を作るのは、町と町の間、つまり人間たちが出す汚れから遠いところに限られる。
ビーバーの巣を発見
沼ベリの足場のいいところに写真の三脚を固定し、望遠レンズを付けてのぞいてみると、ビーバーの巣は文字通りどこからみても沼の真ん中に位置しており、こんもりと枝や泥で小島になっていた。葉が茂ったままの枝先が飛び出していたりして、土で固めた中身は枝以外にも、なにか面白い形のものがたくさん埋まっていそうな楽しげな見かけの城壁になっている。巣のまわりには、不思議な配列で、枝が沼底にささって、沼面に並列している。それはまるで見張りの兵のようにも見えた。あたりの観察をしているあいだにも背景の空は、ブルーグレーに暮れる速度を速めている。
かすかな水音がした。
首をめぐらすと、対岸から巣に向かって、鏡面のような沼面をスーと水の尾が引かれていく。その水の尾の先端には細い小枝が立って水上を動いて行く。お父さんビーバーが巣に枝を運ぶところなのだという。ビーバー自体の姿は水中に隠れてまったく見えない。ただ長楊枝のような枝がV型の水の流れを作っていくのが見えるだけだ。すると、違う方向からも、同様の長楊枝がスーと動き始めた。これも巣に向かって動いていく。ふたつの長楊枝は巣の小島の向こう側に消えていった。こちらから見えるのと反対側に、どうも巣の入り口があるらしい。
その間、200ミリの望遠レンズで必死に目をこらしたが、ビーバーの耳の先さえとらえることができない。
ビーバーの子供も! でも遠い!暗い!
巣の隙間にビーバーの子供が動いているとの、ナビ氏のささやき声にカメラで追ってみると、かすかに何かが動いているのが見えた。わずかな枝と枝の間から、小さい頭が見えた。やった!ついにビーバーの姿を見つけた。くるくると頭が振られて、横顔も見える。しかし被写体はあまりにも遠く数倍のロングレンズでなければとてもフォーカスできないだろうと思われた。そして押し寄せる夕暮れの闇。この暗さはもうここでの観察や撮影はちょっと無理。野生の警戒心と抜け目なさに、降参といったところか。目の前にビーバーたちのリアルな暮らしがある。でももう一歩、歩をすすめたら、またたくまに、彼らは水の下へと隠れてしまって2度と私達の前に姿を現すことはないだろう。そう気付くと、それまで執着していたものから、ふっと解き放たれた。
もちろん悔いはあった。もし500ミリのレンズを持っていたら、もしあと30分早くビーバーたちが姿を見せてくれていたら、、、、。しかし、仮に、こんな距離から彼らの姿を一枚なりともカメラに収めたとしても、その一枚は、やはりたどたどしいものだったに違いない。それよりも、ここでいまの瞬間、彼らと同じ空気を吸っていて、この押し寄せる夕暮れの刻一刻の時間を愛おしい物に感じている、その感触のほうが、はるかに素晴らしい宝物のように私には思えた。
第一観測地点をあとにして、このあと、いそいで第2、第3のウオッチングポイントを訪ねたが、そこにはビーバーの姿はなかった。彼らはせき止めたダムとあたりの湿原を残して、すでに移動してしまっていた。
ビーバーたちはさすがに野生で暮らしを営むだけある。自分達の身を守るための知恵を十二分に発揮して、安全な生活を守ろうと必死なのだった。そのような慎重なビーバーだが、毛皮めあての乱獲で一時はその数が激減したそうだ。しかし近年ビーバーを愛するナチュラリストたちの 地道な努力で、また復活のきざしがあるのだという。
最終章のソネット
意気込みばかりが大きかった、まぼろしのビーバーショット。それ自体の姿を実際にレンズにとらえる事は出来なかった。
旅から戻ってしばらくほっておいたフィルムを、現像してみた。すると、あまりにも早く暮れていった光の頼りなさの印象に反して、そこにあったすべてのディーテルが、繊細なモノクロームのラインで、意外なほどくっきりと記されていた。そのひとつひとつの音符のような線のつながりを見ていると、野生ビーバーたちの生活の息吹や気配を、そこにいたときよりもさらに強烈にリアルに感じる事ができた。
野生に生きるもののように、足音をしのばせて歩き、息をひそめて自然界の気配を感じ取り、自分の視力を全駆動させて、すみずみまで見て取ろうとしたあの瞬間、瞬間が、水上に自分達の生活を自力で作り上げて、敵と戦いながら野生に生きる果敢なビーバーたちと、モノクロームな世界を境界線にして解け合い、美意識を共感しあった、そんな気がする。
町の暮らしの中でも、子供の頃から、夕暮れのひとときが、苦手だった。夜に向かう頼りない光の中で外を見ていると、心が不安定な序曲を奏ではじめる。
私はビーバー沼で撮った一枚をふと手にとり、じっと眺めてみた。それはビーバーの巣をとらえたものではなく、巣の周辺に挿されていた並列した枝にシャッターを切ったもので、その天に向かってテリトリーを誇示しているような枝群が、まるで水に浮かぶ新種の弦楽器のようにみえる。
一瞬目を閉じると、どこからともなく水際の冷気を含んだ風がふいてくるのを感じた。 写真の弦が残像となり、風をうけてふるふると動いている。弦の動きから、羽ばたきのような音が連なり、それは、しだいに静かな旋律となっていった。その旋律はまたたくまにわたしの心の中に響きいって、落ち着かない不安な心を鎮めていた。